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裁判の経過  

2001年7月16日 8名のアポ(原告)が、国(被告)を相手取って、東京地裁に提訴しました。戦後、日本政府が、アポの名誉を回復する措置をとらなかったこと(不作為)についての責任を問うものでした。損害賠償(1人300万円)と、新聞への謝罪広告の掲載を請求しました。

2001年11月28日 第1回弁論 原告の黄有良(ホアンヨウリャン)アポが来日し、意見陳述をしました。
2004年2月19日 原告の意思に基づいて、主張を(追加的に)変更しました。戦後の責任に加えて、戦時中の日本軍の加害行為自体に基づく責任も併せて追及することにしました(1人2000万円、計2300万円)。戦時性暴力の被害そのものが問われることになりました。
2005年2月16日 第8回弁論 ハイナンNET発足(支援者(若い人が中心)のネットワーク作りのため)
2005年3月16日 原告の林亜金(リンヤーチン)アポと、海南島を調査していた張応勇氏(2005年12月死去)が来日しました。 1日がかりで、林アポの本人尋問、張氏の証人尋問が行われました。
2005年4月 3月に行われた被害の証言を聴いた裁判官中2人が異動により交代しました。適法ではありますが、直接証言を聴いた裁判官が、それに基づいて判決を下すべきである、という直接主義の観点からは問題があったと思われます。
2006年3月8日 陳亜扁(チェンヤーピエン)アポが来日し、本人尋問が行われました。
2006年8月30日 地裁判決被害事実は認定されましたが、原告の請求はいずれも棄却されました。
国の法的責任について<戦前>不法行為であることは認めつつ、国家無答責の法理(大日本帝国憲法下の国の権力的行為によって損害が生じても、国は責任を負わないという考え方)により、国を免責しました。また、20年間権利を行使しなかったことにより、原告の損害賠償請求権は消滅した
(除斥期間)と判断しました。<戦後>国はアポの名誉を回復する義務を負わないと判断しました。
2007年4月27日 「中国人慰安婦」事件最高裁判決(以下「4・27判決」といいます。)本件とは別に、中国山西省出身の元「慰安婦」が提起した訴訟です。被害者の訴求権(裁判で自己の権利の実現を求める権利)は、サンフランシスコ平和条約の枠組みの下、日中共同声明5項により放棄されたと判断しました。国家無答責の法理、除斥期間を理由に被害者の訴えを斥けてきた従来の裁判所の判断とは異なる理由付けで、アポの裁判においても、この判決にどう向き合うかが大きなポイントになりました。
2007年5月15日 東京高裁で第1回弁論
2007年9月15日 第2回弁論 精神科医の野田正彰氏が、PTSD(心的外傷後ストレス障害)について鑑定を行いました。
2008年1月15日 第4回弁論黄有良アポの本人尋問が行われました。裁判官が、弁護団に対し、この裁判には4・27判決の論理は妥当しないということについて、具体的な説明をするよう(釈明を)求めました。

2008年9月18日 第6回弁論国は個人の訴求権を放棄することができないとして、4・27判決の不当性を主張しました。また、4・27判決を前提にしても……控訴人は、「破局的体験後の持続的人格変化」という、PTSDよりも深刻な精神障害を負っており、1972年当時このことは認識されていなかったので、当該被害に基づく損害賠償請求権は放棄されていない。名誉回復措置をとらなかったという不作為に基づく損害賠償請求権は放棄されていない。等と主張しました。






















2009年3月26日 高裁判決 被害事実は認定され、控訴人が「破局的体験後の持続的人格変化」という精神障害を負っていることは認められました。しかし、原告の請求はいずれも棄却されました。国家無答責の法理は排斥されました。
しかし、4・27判決と同様に、サンフランシスコ平和条約、日中共同声明により、訴求権は放棄されたと判断しました。(除斥期間については、判断を示す必要がないとされました。)
2009年4月9日 最高裁へ上告しました。
2010年3月2日 最高裁、上告棄却の決定 元「慰安婦」が提起した10件の戦後補償裁判は、全て原告敗訴で終結しました
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