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海南島の歴史

 

約3000年前から、海南島には先住民族が平地や海岸沿い住んでおり、

原始農業や手工業、狩猟採集をして暮らしていた。
 

中国の秦の時代、海南島は秦の属地とされ、大陸の漢民族の移住が増え、

先住民の居住地は山地に追いやられ、徐々にその特有の生活様式、

固有の文化を失っていった。

 

清の時代末期には、

先住民の原始的な暮らしが五指山少数民族地区に僅かに残っていた。
 

現在では、海南島の先住民は黎族と呼ばれているが、

これは漢民族側が付けた呼称である。



 

 

 

 

南部には苗族と呼ばれる少数民族がいる。明の時代に、現在の広西省から、船で海南島に渡って来た。

黎族と戦っていた漢族が、兵士としてたくさんの苗族を連れてきたが、自主的に海を渡った者もいるとされている。

苗族が海南島に来た時、良い土地はすでに漢族と黎族の手にあったため、苗族は密林を開き山の上に暮らすしかなかった。

 

今でも苗族の村は山間部にあり、村の周りには美しい棚田が広がっている。

 


 

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島北西部の臨高県は臨高人と呼ばれる人々の暮らす地域であり、海南島の漢民族の話す海南語とは異なる言語、文化を持っている。漢民族に同化された少数民族だと言われており、自らをそう認識する臨高人も少なくない。

海南島の全土に回族と呼ばれる人々がおり、海南島が海上シルクロード交易の重要な経路であった唐から宋の時代にかけて海南島に住み始めたイスラム教徒である。海南島の各所には、数百年前のイスラム教徒の墓地が点在している。

1939年に日本軍が海南島に侵攻し、南方への重要な軍事拠点として、また豊富な資源を収奪するため1945年まで占領した。
海南島には豊富な鉱物資源、農産物、畜産物、海産物、林産物があることを占領直後から日本人が綿密に調査しており、日本政府は海南島を単なる軍事拠点ではなく「第二の台湾」という位置づけで占領していたことがうかがえる。
日本軍の占領に対して、海南島でも抗日ゲリラが組織され、島全土で戦闘を繰り返した。その際山間地に精通した少数民族の活躍も少なくなかったと言われているが、その記録はほとんど残されていない。

 

日本軍は、現地住民を鉱山や軍事施設建設で強制労働させ、共産ゲリラを匿ったなどとして村人を虐殺した。更に、朝鮮から政治犯として投獄されていた朝鮮人を海南島に送り「朝鮮報国隊」として飛行場や道路建設などの強制労働をさせた。敗戦時には彼らを一箇所に集め虐殺し、その存在自体を隠滅した。

1988年に海南島は広東省から離れ海南省となると同時に経済特区に指定され、観光などの分野での経済開発が急激に進められるようになった。

現在、海南島の多くの街には革命烈士を讃える記念碑や資料館が共産党政府によって建てられ、「烈士」が日本軍や国民党軍と戦った記録は残されているが、日本軍による虐殺の被害者名簿などの記録や性暴力被害者への名誉回復の取り組みなどは一切なされていない。

 

「私が小さい頃はこの村の生活は本当に苦しくて、食べ物が無い時が度々あった。そういう時は、弟は男の子だからと言って少しのお粥を与えられたけど私は女の子だからって水を飲んで我慢しなきゃなかなかったんだよ。本当に辛かった。」
いま彼女の村には、たまに停電するものの電気が通り、最寄の町と村とを繋ぐコンクリートの道も去年作られた。

「中国のハワイ」で有名な海南島では、三亜や保亭などの街で観光開発がどんどん進められており、農村部との経済格差は甚だしい。しかし中国の経済成長の影響は2006年頃から海南島の農村部にも徐々にではあるが影響を及ぼしている。2011年には北部の首都海口と最南部の都市三亜を1時間半でつなぐ高速鉄道が開通した。硬座は88元(約1000円)で、九州で言えば福岡から鹿児島に行ける感じだ。

街の人にとってはそんなに高い値段では無いが、農村の人にとっては決して安くない値段だ。
しかしこの電車により観光客やビジネスをする人々の移動はかなり容易で活発になるだろうと期待されている。この新幹線のような電車が、トイレも無い農村部を走り抜けて行く様子は、現在の海南島を象徴する光景だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

by.苗族のアポの孫娘(1984年生)

今の海南島

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