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関口俊輔さんの戦争

たまたま今日こういうことになったいきさつというのは、この前橋市。古前橋市で革新懇話会。革新懇っていうのがあるのですけど。そこで戦争中に海南島へ行って、まあその中の話の一環として「従軍慰安婦」がいる。まあそういうのを軍部が作ったのか、事業者が作ったのか、ちょっと分からないのですけど、そんな話をちょっとした。それが、あの。取材をしていた赤旗新聞の方が書いて出したものですから、それをKさんが見て、ぜひその海南島の話をということで今日に至ったというのが概要ですね。(00.01.19)
Kさんにお送りしたこの『生きて故郷の土を踏む』という自分史の一部分を予科練に。予科練と行っても分からないと思うのですが、海軍飛行予科練習生の予科。予科練なのですね。(00.01.58)それに志願をし、家を出てから家に帰ってくるまでの1年半ですかね。1年じゃない。昭和18年。通して4年になるのですけど(00.02.25)、それをまとめた本をお送りしてその中で海南島に私が部隊とともに行っていたものですから、そんなことからみなさんにご足労いただく、そういうことになったわけですね。(00.02.35)

まあ、それで海南島に行った方もいらっしゃるという話でしたけど。これだけでは、わからないと思う。これが海南島です。これだけでは、海南島がどこにあるかわからないと思うのですが。ここがフィリピンですね。これが中華半島。南沙半島。これは中国の領土だと言っているのですけど。ここが中国です。これがベトナムです。その。ここに海南島がある。海南島がこれだけのところに。それで私はこの海南島で特別攻撃隊。日本海軍第三十二震洋特別攻撃隊。そういう部隊の名称なのですけど、でここの南の所に三亜。ここの言葉でダンワというのですけどね。(00.04.21)そこからちょっと離れた陵水という町があるのですが、陵水のちょっと離れたところに新村。ここに1945年2月5日~1946年3月23日。 ですから、終戦後半年いたわけですね。(00.04.55)ま、そういうことでそのわずかな期間ですけど、この海南島にいた。でも、ほとんど私なんかは外出といっても、この陵水といってもこの町に出てくるくらいですね。ここにちょっと自分たちの基地が出来るまでここに半月ぐらいいたのかな。そういうことです。海南島というのはこういう位置にあるということですね。中国、ベトナムがあって。
その廻って。ですから、戦争中はこのベトナムから、ジャンクが帆を張ると偏西風で、エンジンも使わないで海南島に着くのですね。(00.05.50)で、密流物資をどんどん運んでくるのです。いくら周りを厳しくしてもジャンクですから音もなくどこへでも着いちゃう。そうすると戦争中、イギリス煙草が入ってきたり。イギリス煙草でメリークインなんて女性用の細巻きの煙草が入ってくるという、そういうことがあります。(00.06.14)それはこういう地形的なあれで。偏西風でひとりでに着いちゃう。(00.06.22)そういうところにいた。まず、海南島というのはそういうことです。

ええ。だからこれが写真で。(00.06.55)これは私が奈良海軍航空隊。入った当初は三重海軍航空隊、奈良分遣隊と言っていたのですけど、昭和20年3月に奈良海軍航空隊というのになって奈良空という風に言っているのですけど。まあ、その時のまあ。これが私の実家の志願をする時。(00.07.26)これが親父で。これが5年で。私は中学5年で志願をしたのです。今の高等学校2年の時に同級生が「おい、記念に写真を撮ろうよ。」。今みたいにカメラなんてどこにもない。写真屋さんに行かないと撮れないので、そんなかしこまった写真なのですよ。これが奈良空へ入ってですね。これが16歳、17歳かなあ?昭和18年だから、私が2年生まれだから16歳だ。入った時の写真です。これだけの人たちが一つの分隊という形であれして。これが入った当時ですね。これは後でずっと見てもらうと予科練というのは、こういうこともやるのだなあと(00.08.58) これはあの水平飛びと言うのです。マットを敷いて、1人17
人並んでいます。私なんかも10人までは飛べた。(00.09.15)11人になるとそこへ落っこちた。そういう身体を鍛えさせられたというそういうことですね。

K:どっかの高台から飛び降りるのですね。(00.09.26)

いや、これは踏み板でボンっと飛んでそれでガッとやるのです。あのいわゆる体操マットをダーッと。一つのマットで5メートルくらいですか。(00.09.37)それを三つ並べると15メートルくらいになるので、(00.09.41)それに寝かして、最後のやつが落っこちると「ぎゃっ」となって、「うわーっ」と。まあ、そんなことです。

これが予科練の同期で。これが卒業してから。川棚にいた当時ですかね。(00.10.09)で、その当時のこれを伸ばすとこういう写真になります。(00.10.19)七つボタンが予科練の華?って知っていますか?(00.10.22)「七つボタンは桜にイカリ。今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦に♪」。予科練の歌というのですけど。七つボタンですよ。七つボタンは他にもあったのですよ。海軍兵学校って今江田島にありますよね。広島県の。(00.10.44) 海軍の将校、士官。これを要請する学校だったのですね。(00.10.49)で、そこも七つボタン。ところが、七つボタンが違うのですよ。(00.10.58)向こうの人たちは単ジャケットってね。(00.11.02)これ冬服の時はボタンがない。夏になると単ジャッケットの白のあれになぞかける。(00.11.08) 夏になって帰ってきますと子どもたちは「1、2、3、4、5、6。あ、海兵だ。」。「俺たちは海兵じゃないよ」というエピソードがありました。

特別攻撃隊の三個部隊に行っていたのですね。(00:11:48)それで、私なんかがいたのが新村というところですね。陵水県の新村鎮。そこに南湾嶺という峰があって、その南湾嶺のふもとに。今はね、日本からも海南島の観光団が行っています。(00:12:19)そうすると必ずそこに寄ります。猿島っていうのですよ。お猿がいっぱいいる島なのですよ。私なんかが行っていた時も、時々猿が出てきては、その干してある食べ物なんかをパッと持って行っちゃうの。そういう猿島で今、観光地になっているの。それで私が第三十二震洋特別攻撃隊。これがいました。それからもうちょっと離れて三亜。三つの亜細亜の亜。ダンワ。ここには第三十三震洋特別攻撃隊。(00:13:01)これがいたのです。それからもう一つ第一〇三震洋特別攻撃隊。(00:13:15)これがね。たぶんね。私が行ったことないから分からないのですけど、あの北の海口。海の口と書くの。この近くに第一〇三震洋特別攻撃隊がいたの。まあ、私なのかは行っていないのですが、そういう海口にいたということだけですね。(00:13:47)それで行っていた部隊の一部始終を書いたのがこれで、私のいた部隊です。(00:13:59)それから、三亜にいた第三十三震洋特別攻撃隊を書いたのが、この『青春の群像』です。『帰らざる特攻艇』増田善雄さんという方が書いています。この増田善雄さんは今、神奈川県に住んでいらっしゃって。 ここにも書いているのですが、波力発電。波力。波の力。海の波の力を利用して発電をするという、そういう研究の大家で、そのことについて紫綬褒章をもらった方です。そういう人で今、生きていらっしゃる。(00:15:06)もちろん、その人は軍歴もありますので、九州の大浦湾に小串郷という部落がありますね。川棚町。川の棚の町。小さな串。(00.15.27)そこに私なのかが乗った震洋艇の基地がある。訓練基地があるの。(00.15.36)川棚訓練基地があるの。で、そこに震洋で亡くなった人たちの慰霊碑があるの。慰霊碑が建っていますが、その慰霊碑なのかを含めて増田さんという人が今、会長で色々やられています。
そういうことで今、この人は有名ですね。それで今川棚という話が出ましたけど、(00.16:15)昭和19年11月から。11月に入って。昭和19年ですね。(00:16:22)1944年の11月から訓練をして。(00:16:29)ふた月間の訓練をして、1945年の1月25日。26日かな。日本を離れて、海南島へ行くということですね。(00:16:47)川棚にいたのは、ですから19年の11月から1月まで。1月10日かそこらまでいたのですけどね。佐世保へ移って出撃の準備をしていて、1月26日に船を出航させて、2月の5日に海南島へ着きました。(00:17:16)それからの生活が海南島。みなさんの関心のある話になると思います。(00:17:30)色々持ってきたのですけどね。乗っていた船の聖川丸。普通の人。今の人が見たら分からないのですけど、船がどこを出たのか。佐世保。20年の1月20日に佐世保へ入港し、いろいろ荷役、物を積み込んで。(00:17:54)そして、1月29日の○八四八。こういう時間の呼び方です。24時間制を海軍は取っているのです。ですから、○八四八というと午前八時四八分。これが○八四八ですね。(00:18:16)で、六連。それから再び、佐世保へ戻って。ないや。 そのまま出航ですね。(00:18:29)海南島の榆林に向けて六連出撃っていうのが。ですから、20年の1月29日。それでこれを見てみますとね。どういう風に行ったかといいますと。海南島を。
中国大陸がありますよね。これが台湾。この佐世保から出て、中国の沿岸を出て、それでここへ行ったのですよ。[海南島]というのは、アメリカの潜水艦があっちにもこっちにもいるわけですよ。それで攻撃を受けないようにということで、沿岸を通って。沿岸といっても見えることではないですけどね。(00:19:23)浅くなりますから、潜水艦の行動半径がにぶって浅いところは入れないわけですよ。それなので沿岸を通って、それで海南島へ行ったの。それでも途中に2回、魚雷攻撃を受けています。それがこの中に出ているのですね。(00:19:43)えーっと。どこだ。台湾地区空襲警報発令なんてありましてね。で、1番艦舵機故障、陣列を離れる。で、修理をしてどう右陣列に入る。三番艦舵機故障。(00:20:07)これ、みんな魚雷が来て真ん中に当たれば沈んじゃうのですけど、そうじゃなくてかすり傷みたいで、魚雷が。これは後で見てください。(00:20:20)これが乗っていた船の戦闘が書いていますが。

K:回させていただいてもよろしいですか?

はい。

K:これとこれは同じものですか?これは当時、関口さんがもらったものではないですよね。

私なんかが乗っていた船です。

K:それでこの当時、日誌自体を持って行ったのでは?

いや、違います。(00:21:08)これは戦後です。こういうのは、どっからか手に入れてくるのですよ。例えば、防衛庁防衛研究所の図書館に行くと、いわゆるこういう戦時中の戦史というのが全部取ってあるのですよ。

K: そうですよね。軍極秘っていう箱になっていますよね。

ええ。1番軽いのが秘。○秘っていうので秘密。その次が機密。機会の機に機密。これは軍極秘だから最も秘密性が高いの。(00:21:40)これを他に出したら、日本軍の動きを知られるというので、軍極秘という風になっています。(00:21:47)それから今お話しをしたようなことを、今本を持っていないですが、『輸送船団各戦へり』っていうので今、聖川丸。聖という字に川を書いて丸。(00:22:17) 聖川丸という輸送艦なのですけど、それが佐世保を出航して海南島に行って、さらに海南島に我々を下ろしてから、今度はシンガポールまで行くのですね。(00:22:35)それの日誌なんかも、船団の日誌なのですけども、『輸送船団各戦へり』っていうのを抜粋し、こんなものを誰かが見つけてきて、会合がある度にこれを配っておい見ておけということですね。(00:22:53)これもまわしますね。それからこの厚いあれでは大変なので、これを作ってあります。予科練に出てからのやすですね。海南島のあれは。これが海南島に行くための川棚で訓練した時の飛行服と飛行帽。(00:23:24)まだ、飛行眼鏡も貰っていないのですよ。船に乗っているけど飛行兵だから。飛行兵のくせに。
これが海南島に行った時の基地で撮った写真で187名。(00:23:27)これが全員で、私もどっかにいるけど分からない。もうこうなっちゃっているので分からないですね。(00:23:44)これが海南島に行っていた当時の我々の特攻隊の幹部、三個部隊の幹部と海南警備府。そこの司令長官。これもまわします。(00:24:06)それから、まあ戦後2回海南島を戦友会で訪ねているのですね。で、第1回目の時のあれが、こういうここの大沢さんという方が。東京にいる方なのですけどもう亡くなっていていないのですけど。その方が事務局をやっていましてこれを書いた。で、海南島へ戦後行っているのですよ。(00:24:38)それからそれがさっき言った海口にいた一〇三震洋攻撃隊の中の、これも戦後書いた資料です。それからこれは1999年に第2回目に海南島へ行ったのです。それには私も一緒に行きまして、その当時の海南島の様子をまとめて。大沢さんがまとめてくれたものです。(00:25:21)それから日本軍が海南島をどんな風に占領して。私なのかが戦争が終わる2月に上陸をするのですけど、それ以前の海南島の。なぜ、海南島が占領したのかというのをこれ、〔『天皇の軍隊と日中戦争』〕ごらんになっていたと思うのですが、藤原彰さん。この方もう亡くなっておられますよね。この方が書いた本の中で海南島における三光作戦。三光作戦って知っていますか?三つの光。焼き尽くす、奪い尽くす、それから殺すか。これ三つを称して、三光。中国の方が名付けた呼び方なのですね。(00:26:32)三つの光。光ではないのですが、中国ではそういう風にいうのかもしれませんが。 海南島で海軍がその三光作戦をやったというのを初めて私もこの本を買ってみて、そして知ったのです。ですから、私たちが行くずっと前。昭和13年に海南島はもう日本陸軍と日本海軍両方によって占領され、それから1年ぐらいして陸軍は中国の大陸に全部引き上げて、全部海軍が占領していた。それでなぜ、海軍がそういう島を占領したかというとこれはようするに南、その例えば今で言うジャワですかね。石油資源や鉱物資源などを日本へ運び込む。それの要、要衝というか、途中海南島に海軍を派遣したりしてその周辺を警戒にあたらせたりして、輸送船が無事に日本へ運んでくるようにとやったというそういう位置づけなのですね。(00:27:49)で、昭和13年に占領して以降、海南島は三つの陸戦隊。陸戦隊というのはわかりますか?(00:28:03)陸上の陸。戦は戦う。隊。陸戦隊。海軍の中で船を走っているだけじゃなくて、丘に上がって陸上で戦う兵隊を陸戦隊。この海南島は三つの陸戦隊が分割し、占領していました。(00:28:32)で、一つはこの関東にある横須賀。日本海軍横須賀第四特別陸戦隊。横四特と略称で言っています。それから佐八特。佐世保の第八特別陸戦隊。佐世保に今でも港であり、海上自衛隊の基地になっていますけど、佐世保から出て行った陸戦隊。佐八特。(00:29:38)それからあと一つ、舞一特。舞鶴。今、舞鶴にも海上自衛隊の基地がありますけど、日本海軍が舞鶴に鎮守府を持っていた。で、舞鶴の第一特別陸戦隊。舞一特。この三つの陸戦隊が分割をして占領していたのですね。(00:29:50)                            
で、そこへ私なんかが。いよいよ戦争が厳しくなってきたので、日本というか沖縄に近づけないためにまず、歯止めをかけようというので、私なんかが派遣された。ところが実際は、海南島に目もくれず、フィリピンを攻略した部隊はそのまま沖縄へ行っちゃった。で、そのまま沖縄であのような惨劇というか、大変な戦いを強いられたというわけですね。(00:30:30)海南島は置き去りにされちゃったというわけで、私の部隊なんかは1人しかいないです。みんな生きて帰りました。(00:30:41)だから、生きて帰って故郷の土を踏むっていうね。出て行く時は絶対に帰って来られないと。ああ、ここの家の敷居をまたぐのもこれが最後だなあというので、それがなんと高校2年生の時ですよ。(00:31:01)そういうことですね。それで向こうに行って、2月の上陸をして。2月5日ですね。(00:31:24)で、三亜の対岸の安遊というところですけど、そこに仮基地を置いて、新村が出来るまでそこで頑張ったということです。(00:31:45)そして、新村の基地がその年の4月。1945年。昭和20年4月初めに完成をするというので、そこから。榆林から新村に向けて、震洋艇を改装するのです。改装するといっても。船の写真あります?『生きて故郷の土を踏む』。これなのですよね。ヨウフクが書いてありますけど、5メートル10。幅が1.67。それで全部ベニヤ板。木造圧縮合板の外形でベニヤ板の厚さが分からない。これを1人がイッパイ乗って動かすのですけど、これを乗っていた。これでこの頭に250キロの当時下瀬火薬と言っていましたけども、炸薬、爆薬を積んでいるのです。で、この船が当たると爆薬の方に針が出ていまして、それと接触、電流が通じてこれが爆発するという船なのです。これを1人が1人、乗っていって敵の敵前50メートルになったら、降りなさい。海の中へ降りなさい。それで、船は舵を固定していけば、船に向こうに行って当たる。50メートル行ったところで爆発されたら。お魚がダイナマイトでやるとね、「うわぁーっ」と浮き上がって飛び上がるのですけど、それと同じで人間だって、骨と皮の間がみんなはがれちゃうのですね。(00:34:17)そういうことを平然と、平気でやらせたというのが当時の特攻隊、大本営の考え方ですね。(00:34:35)

K:あ、ちなみに震洋という特攻隊の資料をネットで調べてやってきたので、ざっと今関口さんがおっ
しゃったのと同じなのですけど、震洋は別名「○四」と言われていたのですね。

「○四」です。陸軍の同じような兵器で「○六」。まあこれはあの名前を付けようがなかったので、「○四」「○六」といっているのです。(00:35:03)まあ、それじゃあしょうがないというので、太平洋を震わすというので、「震洋」と。それから1人乗りの。あの『出口のない海』という映画を見ました。見てないですか?「回天」。あの回天というのは1人乗りだけど、海の中に潜るのです。これ潜水艦が、回天という1人乗りの。また、この魚雷と同じような船に乗って、すでに1人が交信出来ないのです。前に行ったきり。それを潜水艦が四つ積んで、一つずつ離していくのです。それが回天。天を回らす。
すごい名前をみんな付けているのですよね。(00:35:45)これが震洋です。太平洋を震わせる。(00:35:49)
これは私が予科練に入ってから海南島に入って帰ってくるまでの履歴です。これを見てください。(00:36:05)これは海軍に入ってからの色々、まあ震洋を榆林から新村までのがいこうそうりが書いてありますから。(00:36:23)

まあ、今、絵を見ていただきましたけど、こういうのがいくつもあったのです。私なのかが乗ったのは、一型といって、これですよね。その時はまだ線が張っていないのです。これはね。鋼線〔銅線?〕〔船体上部〕でね。敵の網が張ってあるのを破ろうという鋼線〔銅線?〕が張っているのですが、私なのかが乗っていた船にはこういうのが張っていなかった。ここに炸薬〔船体前部〕があってここにエンジン〔船体中央〕。これ、トヨタトラックのエンジンです。それをヘッドの部分を削って海の上で使えるようにして、それからここにスクリューが付いているのですね。(00:37:21)それでここへロケット砲〔船体後部〕。六作弾。ロケット散弾。何メートルかな?500メートル行って空中で爆発する。そうすると中から散弾が出て、その下にいる人間、敵兵を傷つけるというので、これがロケット散弾。これを二本。両側に積んでいます。(00:37:47)それだけですね。こういう船で行ったのですね。しまいにはこれだけじゃ大変だというので、五型というのが出来た。これは海南島の海口の方に行った一〇三震洋特別攻撃隊がその船を持って行った。これは2人乗り。(00:38:09)13ミリの機銃が付いているの。これね。普通はね。この船〔一型〕が出て行くのを援護するという意味で機銃が持っていたり、何かしている船が出来るのですけど。だって、海南島のあれですよね。海南島の一番北にいるっていうのが、一番南にいるのを援護するなんてとんでもない話ですよね。(00:38:34)出来ない相談ですね。それからこれもね。実際に使われたかどうか分かりませんが、七型っていうのがこれです。要するにこれはロケット噴射。噴射装置を付けて、エンジンで動かすのではないですね。噴射装置。これが八型。七型の改良型。(00:38:59)これ、実際に七型も八型もこういうことで設計をしたけれども、間に合わなかったということじゃないですかね。全然私なのかは見ていません。(00:39:13)これをまわしますね。私の軍歴です。

まわしました?

後は色々持ってきたのですけど、(00:39:43)それから、第三十二震洋特別攻撃隊187名と言っていたのですけど、これが名簿です。(00:40:13)部隊長から私はこの名簿で、第二艇隊の第三小隊二番手、旧姓ジンボで載っています。これが名簿です。まわします。187人。これもまわします。

それで置き去りにされたものですから、この軍歴を見ていただければ、わかるのですが、1945年8月15日にまあ終戦。向こうでは敗戦と言われていまして、負けたのだなってね。天皇裕仁ポツダム宣言により終戦の詔書を放送した。これは歴史としてご存じだと思うのですけど、その後半年いたわけですね。じゃあこれで帰れると言ったのだけど、帰るにしても。連合軍の方がお前たち帰って良いと言わなければ、帰れないわけで。(00:41:36)まあ、そのためにしばらく待っているわけです。(00:41:40)そうすると、11月過ぎになってから、中国の海軍が私たちのその基地を丸ごと接収に来ました。で、武器や何かを前部そのまま出して、ところが中国の海軍、海軍の兵隊さんがいないものですから、お前たちここで残ってこれを管理してくれということで185人〔187?〕の中から30人だけ選ばれて、まあ選ばれたといってもこっちで指名したのですけどもね。(00:42:13)終戦後、半年残って自分たちが持っていた今まで兵器を盗まれたりしないように管理するというので、中国の海軍に留用され。雇われたのですね。(00:42:26)中国海軍の留用員。それがあって、11月からずっと同じところで私たち30人だけ残って暮らしていました。他の人たちは全部、あの海南島の榆林の安遊とさっき言いましたけども。安遊、そこの収容所に全部入りました。(00:42:57)私たちだけが残って今までと同じ生活をしていました。それを翌年3月10日にあの当時、引き揚げ船というと必ずこれが使われたのですが、アメリカの輸送艦L何号というのが付けられている。私なんかが。私なんかのはL187号というのが、榆林に入ったぞという話があって、それで乗って帰ってきました。これは3月14日に榆林でその輸送艦に乗って、3月21日に広島県大竹港に上陸をした。で、3月23日が復員完結というので解散ということになってそれからまあ帰ってきたということです。(00:43:57)

それで広島、大竹に帰ってきて。というと、まあ引き揚げ者。我々は引き上げ軍人と言うのですけど、こういう引き上げ証明書が出されます。これ1人1人にみんな出ているの。で、元はどこにいたのだと。、で、私なのかは海南島の三亜にいた。海軍の軍人だった。で、これを持っていればあの今JRですが、当時は国鉄とも言っていなかったのですが、鉄道省。鉄道省と言っていたのです。あの汽車に乗れると。これを見せればタダで乗せてくれる。で、自分たちの郷里までこれで帰った。郷里へ帰ったら、その当時はお米や醤油味噌が全部配給だったのです。配給手帳がないといくら帰ってきたってもらえないというので、これに配給の主要食糧特配購入券。それから味噌醤油特配購入券。これが付いています。(00:45:17)まあ、うちではこれ使わなかったのですけどね。で、残っているの。それから無一文で。向こうでお金取り上げられちゃったわけだから。向こうへいってもね。日本のお金を使ってないのですよね。軍票という。軍が作って印刷をしたお金。軍票。票は一票二票の票ですね。(00:45:41)それが通用していたのですね。それが終戦になったということで、今度はその軍票が全然使えなくなったの。我々は使いたいのだけれども、もう相手の人。もう、中国の人たちはダメだ。こんなのは紙くずだ。(00:45:41)それでどういう風になったというと、向こうでいっていた法幣。法律の法に。貨幣の弊。これは中国の。中国っておもしろいのですよね。北の北京あたりで使うお金と、この海南島部落。広東省になるまで。あっちの南ですか?お金が違ったりね、あの利率が違ったりして。それでも中国として使っているのは法幣ということになっている。それを使ったということですね。(00:46:40)まあ、いずれにしろそれが使えないからみんなくれてきたりしたのですけど。無一文ですから日本で帰ってきてからお金がいるというので、引き上げ軍人1人あたり200円。当時の貨幣価値とすれば、偉い金額だったですよね。200円をその当時、戦争中からずっと使ってきた。あんまりその物価と貨幣価値が比例をしなくなって、あの一つの煙草を買うのにも。あれどのくらいしたのかなあ。(00:47:21)というので、新円切り換えというので貨幣価値を切り替えちゃうのですよね。今まで100円したものが10円になっちゃう。で、その新円を持てないと買い物が出来ないとそういうことだったのです。それは昭和21年。1946年にその新円切り換え。貨幣価値がそうなったという制度があったのです。で、我々はそういうことを知らないで行っていたのですけど、上陸をしたら、200円。新しい新紙幣。新円交換済みというので、あそこの銀行、ゲイヒン銀行の大竹支店から1人200円ずつ渡しましたよというのがここに書いてある。これを見てください。これはコピーをしたやつです。もうあの本物はすでになくなっちゃったので。(00:48:30)それ。だいたいそういうことで、まあ帰ってきたということになりますね。

ざっと今お話ししたのですけど、まあみなさんの方から色々あのことはどうだ。このことはどうだ。というのを出してください。

それからこれはねえ。インターネットでね。震洋というもので、改めて去年の秋頃だったからかなあ。引っ張り出してみていったらその中に出てきた。これはねえ。進学の進。日本の日。進日。老兵。老いた兵隊が海南島の新村に行ってお詫びをしてきた。そういうニュースが、これはねえ新華社通信。中国の有名な新聞社ですね。そこが出したのがたまたま私ね。インターネットで出してこれが出てきたの。それでそれをね。訳。まああの。日中辞典を買ってきたのだけど、なかなか読めないの。(00:49:49)翻訳というところをパッと出すと、翻訳するのですよ。これが。赤字が翻訳なのですよ。ところがね。この翻訳がね。機械的にやるものだからちっとも意味が通じないの。私が日中辞典で引っ張り、引っ張りした方がよっぽど。自分たちのことを書いているのですからね。1999年に海南島へ行ったというそのことを書いているのです。(00:50:16)99年に行ったのがこれですね。これがその時の話です。(00:50:23)そのことを書いているのです。まあ中国語を勉強する方に見てもらえばすぐわかるのだろうけど、まあこの中国の漢字で新漢字があるでしょう。分からないのですよね。日本の漢字辞典じゃ出てこない。日中辞典じゃないと出てこない。で、この翻訳がまたでたらめなのですよね。ね。新村って書いてあるので、これが何だといったらニュータウンだって。新村鎮という部落の名前なのだよ。ニュータウンじゃないのですよ。そういう訳し方をしている。これも見てみてください。おもしろいです。私はまあこれで一字一字を引っ張り、引っ張りして大体の意味は分かったのですけがね。(00:51:24)新華社通信。中国を侵略した日本軍の老兵が海南省の新村鎮の人々に謝罪をしたというのですよね。(00:51:34)謝罪をした。私は、謝罪はしてこなかったよう気がするのですけどねえ。そういう風にこの新華社通信の2001年1月2日21時43分。えーとこれは新華社通信の海口発の電報ですかね。そういうので出ているのです。で、本文は日本の震洋会事務局長の大沢芳夫が先日海南日報を通じ、五十年前の中国を侵略した日本軍震洋特別攻撃隊が、豊かな海南省陵水県南湾の新村鎮の住民に謝罪をしたという。その後、またあるのですけどちょっと意味がつながらないのです。で、去年の二月大沢芳夫一行15人。たしかに15人で行ったのですけどね。そうなのです。詫び状を持って陵水県に到着。詫び状を持って。観光という意味で自分たちのいたところを訪ねろということで行ったのだけどね。まあ向こうはそういう風に捉えているのですね。(00:52:47) 大沢芳夫は謝罪文の中で言う。彼らは第二次大戦末期、海南島の南湾に日本が侵攻し、海軍震洋特攻隊は一年間駐屯した。一年間は駐屯していなかったのですよ。あ、でもそうか。戦後があって一年か。で、最後の文章は理解する。震洋特攻隊。第二次世界大戦末期、中国を侵略した日本軍の一個の決死隊である。五十艘の震洋艇を有し、隊員186人。当時彼らは新村鎮に基地を開設した時、これら当時の住民は移住や逃亡を強いられた。残った人たちは昼夜生活の不安におののいた。(00:53:41)まあ、残って。逃げていったというのはあまり聞かないのですけどね。まあ、そういうことです。私が訳した今の文章はこれです。色々なことをいうものですから。まあ、これはいいですよね。

K:そうですね。これはありがとうございます。ちょっとあの先ほどの一番初めに地図で示していただいた初めの所にいた榆林。

榆林?

K:新村鎮。えーと、順番がですね。南湾嶺と榆林がまた違うのですよね。

南湾嶺っていうのは、新村の。新村というのはむしろ南湾嶺の対岸なのですよ。ずっと100メートルくらいの入り口になった大きいずっと湾があるのですけどね。ねえ。そこの。私たちの部隊がいたのは南湾嶺のふもとにいたのです。猿島にいたのですよ。(00:54:58)その対岸。100メートルぐらい渡る対岸が新村鎮。

K:はい。それで新しい基地が出来たら新村鎮へと。

   そうそうそう。行ったということです。

K:これ、Yさんがコピーしてくれた地図で一応位置を確認。わかりますか?
    ここでは南の湾とだけたぶん書いてあると思うのですが、それが南湾…。
       
   ええ。嶺がついて南湾嶺。

K:南湾嶺だと思うのですが、その海に新村鎮というのがあります。それで三亜の近くにこの榆林とい
   う場所をもう一度教えていただきたいのですが。

えっと。南湾嶺はここですね。(00:56:32)これは。ここが南湾嶺。新村鎮があって。ええ。それから榆林はね。三亜の内側ですね。山を囲んでこっちが榆林ですね。(00:56:49)ここに安遊というのがあってそこに私なんかは一時、二月から四月までそこに。安遊にいたのですね。三亜には海南テイリクがあったの。

K:海南テイリク。
       
   はい。

K:後、三十三震洋特別攻撃隊も。

三十三震洋はたしかえっとねえ。三亜のねえ。えっとね。鹿回頭なんかが。それが鹿回頭。これが鹿回頭。ねえ。たぶん。この辺近く。(00:57:30)もちろん、こんな岬じゃないけど。三亜の近くにいたのですよ。場所はちょっとね。近所の人に訪ねた時、この辺にいたんだと場所を行ったのですけどね。地図上で特定しづらい。(00:57:47)

K:えっとここの地図ではたぶん。

それからあの『生きて故郷の土を踏む』の中にもちょっと話を書いていたのですけども、私たちの部隊が。部隊長が海軍中尉辻田?(ツチダエイザブロウ)。この人が当時27歳。慶応大学の文科だったのかなあ。そうだったのかなあ。ラグビー部の猛者だったのですよね。この人が学徒出陣で海軍へ入って中国大陸の部隊長に。まあ、これは震洋艇ですから艇隊っていうのですけど、第一艇隊が13名。14名。部隊長含めて14名。(00:59:24)第二艇隊が艇隊長含めて13名。第三艇隊も13名。第四艇隊も13名。これだけがぜんぶ予科練出身の本当に突っ込むの。連中です。(00:59:48)その他にこれがトヨタのトラックのエンジンを積んでいたというので、それの整備をする。要するに自動車エンジンに詳しい連中。これが整備隊員として付いていきます。これはね。機関兵といっているのですけど、整備隊長が機関兵曹長の。何だい。その当時年配の人。まあ、年配と言ったって30~40の間でしょうけどね。これが整備隊員で、年配の人たちが。これが何人か。ちょっと数は知らないのですが。それがベニヤ板だっていうので、大工さん。工作兵ですね。これも乗っています。それからこんどは基地隊といってその震洋が全部出撃をした後、玉砕をするまでそこで戦いなさいということでいる。基地隊という。(01:00:41)これがいるわけです。まあ、歴戦の勇士という人も中にはいるのですけども、ほとんどの人が昔その国民の義務ということで、兵役の義務、それから納税の義務、それからあと一つ何がだっけかなあ。ちょっと忘れたなあ。(01:01:13)三大義務というのがあってその中で兵役の義務というのが誰も逃れることが出来ないのですよね。で、兵隊検査っていうのがあって、20歳になると兵隊検査を受ける。そして身体そうけん。(01:01:28)まあ、今の私みたいにがっちりしていると甲種合格。これは有無を言わさず兵隊に。陸軍は2年間。海軍は3年間。戦争中でなくてもそういう義務があったの。甲種。乙種。乙種には第一乙種。第二乙種があったの。(01:01:52)それでそれも戦争が激しくなると。第一乙、第二乙はね。平時でも多少強引にでも引っ張られて訓練を受けたのだろうと思うのですけど。それから丙種、乙種。こういう人は障害を持っているとか、知能がないというので丙種、乙種になったのですけども、まあ決して知能が。(01:02:26)a

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