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About  黄有良あぽ(黎族)

黄有良さんは、1926年生まれです。彼女が生れた家はとても貧しい農家で、母親は盲目でした。上の兄妹が小さい頃に亡くなってしまったため、両親はとりわけ彼女を可愛がっていました。

17歳だった彼女が畑仕事から家に帰る途中、数人の日本兵が後を追いかけてきました。怖くて家に逃げ帰りましたが、兵隊たちは家の内まで押し入って、両親の目の前で彼女に性的暴行を加えました。目の不自由な母親には何が起こっているかわからず、「どうしたの?」と問うばかりでした。

その日から日本兵は黄さんの家にしばしばやって来るようになりました。怖くて隠れていると家の内から両親の叫び声が聞こえました。日本兵は黄さんを見つけられないと、両親に暴行を加えました。両親の叫び声を聞いているのに耐えられなくなり家に戻ると、日本兵は彼女の服を脱がせ、強姦しました。日本兵になぐられ、傷だらけになった両親はその場にボーっとうずくまったままでした。
 

そんな残酷な出来事が何回か続いた後、陳さんとおなじ、藤橋の慰安所に連れていかれました。この藤橋の慰安所は、日本軍の駐屯地の近くにありました。抵抗したり逃げたりしては殺されると思い、つらい毎日を耐えました。ある時、男がやって来て「母親が亡くなったから迎えに来た」といいました。

この男は日本軍と繋がりを持っている男で、父親がこの男に頼み込んで、日本軍に渡りを付けてくれたのだそうです。彼女も母が死んだので家に帰してくれと頼み込むとやっとの思いで許可が下りると家に帰りました。家に着くと黄さんのお母さんが生きていると知りました。黄さんを助けるための嘘だったのです。この後、母親の後を追って黄さんも自殺したことにして2人の墓を作り、家族で隣の県に逃げました。

 

やがて日本が敗退すると、黄さん一家は故郷の村にもどりました。村では黄さんが慰安所にいたことが知られているため、結婚相手がなかなか見つかりませんでした。中国の農村社会では女性が独りで生きていくことはとても困難なことでした。
 

26歳のとき、黄さんはやっと結婚することができました。相手はハンセン病患者で手足が麻痺していたため、働くことができず、畑仕事と家の仕事の一切を彼女一人でこなさなければなりませんでした。「自分はいつも独りぼっちな気持ちがしました」と黄さんはいいます。夫からも過去のことをたびたび責められ、心が痛み、生理も不順で、下腹部が化膿したこともあります。結婚してからも日本兵にやられたひどい仕打ちを思い出し、「死にたい」という気持ちがいつも消えませんでした。
 

それでも子どもが生まれたことが彼女の気持ちを少し楽にさせてくれました。しかし、子どもと遊んでいるときにも、日本兵にされたことを思い出してしまうことがありました。涙を流している彼女に「お母さん、どうしたの?」と子どもは尋ねました。「昔、悲しいことがあったの」としか彼女は答えることができなかったそうです。それを聞いた子どもたちは「お母さん、私たちが守ってあげるから心配しないで」となぐさめてくれたといいます。その言葉に支えられ、今日まで彼女は生きてきました。

しかし、大好きな子どもたちや孫たちに囲まれて暮らす今も、過去のことが頭から離れる瞬間はありません。山道を歩いていても、日本兵に両親がなぐられている悲鳴が聞こえたり、夜眠っているときには、男が覆いかぶさってきて石のように重く感じ、はねのけようとする夢で目が覚めます。心臓が激しく鼓動し、今にも破れそうです。藤橋の慰安所の日々は今も悪夢になって長い夜、黄さんを苛みます。
 

黄さんは「日本軍にひどい仕打ちを受けたせいで自分の性格は変わってしまった」といいます。明るく誰にでも好かれていた17歳の少女は人を怖がり、抑えきれない感情に悩まされ、心を閉ざしてしまいました。

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