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林亜金さん(1924年生 黎族)

私は、保亭県南林郷新村の少数民族である黎族の家に生まれました。家族は父、母、兄、姉、私と3人の弟でした。当時、私の村では、8世帯の家族が農業をして暮らしていました。私の家では、水稲のほか、トウモロコシや他の穀物を作っていました。しかし、作った穀物を売って暮らすも、収入が低かったので苦しい生活でした。家畜は牛が1頭いたほか、ブタや鶏がいましたが 、日本軍が入ってきて焼き尽くされて牛も豚も失ってしまいました。

黎族は女の子が15・16歳になると、母屋と別棟の娘用の4畳半ほどの部屋が用意されます。その部屋に男の子が訪れて、男の子が歌を歌って愛を告白します。私も、日本軍に捕まる前、何度か求愛されたことがありました。また、私の日本軍に捕まるまでの夢は、好きな男の子と出会い、農業をやり、子どもを持つことでした。

1943年の夏、私は家からすこし歩いた「紅星」(地名)というところにある他の農家の稲の刈り入れを手伝っていました。その時に突然日本兵がやってきて、一緒に働いていた他の3人と一緒に捕まえられてしまいました。他の3人も、私と同じくらいの年でした。4人が稲刈りをしていた時に日本軍が来て、包囲されて逃げられなかったのです。日本兵は8人いて、彼らは銃を持っていました。そして、銃口には刀がさしてありました。私たちは脅され、抵抗できないままに、持っていたロープで後ろ手に縛られ、そのまま連れていかれました。

 

村で捕まえられて、後ろ手に縛られて歩いて什君邁(じゅうくんまい)にある日本軍の駐屯地に連れて行かれました。私たちは、かやぶきの部屋に別々に入れられました。翌日の昼、4人が来て私を強姦しました。そして、夜になると5人来ましたが、結局そのうちの3人に強姦されました。その時、手足を縛られたりしていませんでしたが、逃げられる状況ではありませんでした。また、少しでも抵抗すると殴られたり、蹴られたり、煙草の火を押しつけられたりしました。左の小鼻の横に、たばこを押しつけられた痕が今も残っています。この駐屯地には4日間拘束されましたが、毎日、尋問と強姦の繰り返しでした。

その後も、海南島の各地を転々と移動させられました。什浪(じゅうろう)では監禁所があり、トタン造りの建物が仕切られていて、私たちは1人ずつそこに入れられ、外から鍵が掛けられました。そして、見張りが付いていました。着いた日は、昼に2人、夜に5人から強姦されました。このように、1日に6~7人の強姦を受け、それは毎日続きました。

私は、私たちが捕まったのを村の中の誰かが見ているはずで、家族はわたしが日本軍に捕まえられていることを知っていると思っていました。家族に会いたかった。でも逃げられなかった。毎日がつらくて苦しくて死にたかったけれども、親のことを考えると死ねなかった。会わないままでは死にきれなかった。逃げようとしても逃げられず、人間らしく生きられないことが本当に苦しかったです。

什浪を離れたのは、体が悪くなって、日本軍からお払い箱にされ返されたからです。全身がむくんで黄色くなって、体がだるく下半身が痛みました。澱り物が多く出て、臭いもありました。私たち4人は皆同じような状態になっていました。そして、4人とも什浪(じゅうろう)から返されました。この頃、すでに父親は亡くなっていました。父は日本軍から村長になるように言われたり(父は断った)、食べ物もないのに村人から食糧を徴収することを命じられ、苦しんで病気になったようでした。

私は婚約中の姉の住む什丁(じゅうてい)という、故郷の新村からわずかに離れたところにやっかいになりました。それは、後ろ指を指されることが辛く、故郷へ帰るのを避けたからでした。母は、なかなか手に入らない貴重な薬草を、自分で捜しては姉の家まで届けてくれました。このことが原因か、母は元来、体が強くないのに、毎日薬草を採りに行ってくれて体を壊してしまいました。

加えて、薬草の治療により身体が回復したころ、私は再び日本兵に連れていかれました。そこでは、以前と同じように昼夜に強姦を受けるという生活が待っていました。1日に3人から6、7人くらいの人数でした。しかし、次第に日本兵は少なくなり、ほとんどいなくなっていました。こうして、私は日本兵から自由になりました。

実家に帰ってみると、住んでいた村は日本軍に全部焼き尽くされていました。私の家は、父も母も兄も亡くなっていました。体の悪い私と幼い弟たちだけになってしまったので、姉が自分の嫁ぎ先に引き取ってくれることになりました。姉は結婚してからは婚約時に住んでいた什丁(じゅうてい)とは別の羅葵(らき)というところで暮らしていたので、そこに世話になりました。

村の人たちは、私がどこに行っていて、何をされたのか、知っている人も知らない人もいました。ただ、みんな口に出しては何も言いませんでした。私は家族から生きていて良かったと暖かく迎えられ、たしかに生きていて良かったと思いましたが、でも今は自分は夫も子どもも孫もなく、たった一人ぼっちです。私は本当に不運な人間だと思います。

1950年頃、私は夫となる人「吉文秀」と知り合い、結婚しました。その人は、私の村とは離れた村の人だったので、私が日本軍に連れて行かれどのようなことがあったかは知りませんでした。結婚して羅朋什号村に住みました。しかし、結婚して1年ほどして、夫が仕事による旅先で、逮捕・投獄され、亡くなったという連絡を受けました。自分が人を不運にするのだと、自分の運命を呪いました。

戦後も私のことを日本軍の慰み者にされた女、「日本娘」だということをみんな知ってはいても、多くの人は口にはしませんでした。口に出して非難する人は一部の人でした。でも陰でそのように思われたり、言われたりしていることはわかっていました。私は、家族も失い、夫も失い、子どももなく身寄りもなく寂しく暮らしてきました。日本の侵略が私の運命を変えてしまったのです。日本の軍隊によって、顔に押しつけられたたばこの火の火傷の痕や、足をキリのようなもので刺された痕は今もあり、身体にも心にも一生消すことのできない辛い傷痕を残しています。私の人生は、大きな屈辱を与えられ、歪められてしまいました。安らかな暮らしをしていたはずの、私の人生の全てが狂わされました。

私はこの事実や被害を、日本政府や日本の人たちに知ってもらいたいです。

資料   林さん陳述録取書(2005年)より

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