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慰安婦問題」に関して説明していきます

1.慰安所はいつ、どうやって作られたの――年表・設置の目的・設置の主体

1918年~1922年 シベリア出兵(民家からの略奪や強かん事件が多発、性病感染)
1920年9月1日 「芸妓、酌婦取締規則」
1931年9月18日 満州事変
1932年1月 第一次上海事変
      このとき、上海に派遣された日本陸海軍が軍慰安所を設置
「昭和十三年中に於ける在留邦人の特種婦女の状況及其の取締並に租界当局の私娼取締状況」(上海総領事館作成(1938年末))=上海事変のときに海軍の慰安所が設置された
1932年3月 上海陸軍、海軍の慰安所を参考に慰安所を設置
1933年4月 中国東北部での慰安所設置が資料で確認できる(「防疫・衛生施設」、陸軍軍医が性病検査を担当(混成第一四旅団司令部「衛生業務旬報」1993年4月中旬号)
1937年7月7日 盧溝橋事件
1937年末 中国各地に大量に軍慰安所を設置し始める
     南京攻略戦から南京虐殺へ(略奪・虐殺・放火・強かん)
1937年12月11日 中支那方面軍慰安所設置の指示を出す
1938年1月20日までに常州に2つの軍直営慰安所
1938年初め 上海楊家宅に軍直営の慰安所
1939年4月 広州、第二一軍司令部「戦時旬報(後方関係)」=軍慰安所・「慰安婦」に関する記述
1939年4月15日 村松桓軍医部長 兵100人に付き1名の「慰安婦」 検黴は週2回(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)


日 本軍「慰安婦」制度は当時の公娼制度と深いつながりをもっています。女性の性を品物のように売り買いすることを国家が公認する制度が公娼制度です。明治時 代につくられた「娼妓取締規則」では、公娼にさせられた日本人女性たちの営業や廃業は、形式上は「本人の自由意志」によることを建前としていましたが、そ の実態をみると「自由意志」はほとんど認められていませんでした。彼女たちの大半は、貧困家庭の出身であり、親による「身売り」を経て娼妓となったため、 業者に前借金で縛られ、身体と生活のすべてを拘束されて奴隷のように性を売ることを強要されていました。また取締の対象となるのは男性ではなく女性でし た。
 

日本の公娼制度は、戦前に日本が侵略して実質的に支配した地域である台湾、朝鮮、「満洲」、樺太、南洋統治区域にも持ち込まれました。このときに暗躍した人身売買業者とルートが、のちに日本軍「慰安婦」の徴集にも大きな役割を果たしました。
 

1931年9月18日に、関東軍は、中国奉天の東北にある柳条湖の満鉄線が中国軍によって爆破されたという謀略をしくみ、関東軍の武力を発動しました。日本政府はこの事件を「満州事変」とよびました。これが発端となり、中国と日本の戦いは激しさを増していきます。
 

1932 年1月に日本は国際世論の注目を「満洲」からそらすために上海で日本人襲撃事件をしくみ、これをきっかけに日中両軍が上海で市街戦に突入しました(第一次 上海事変)。このときに日本軍人による強かん事件の多発を防ぐために、日本陸軍の慰安所を設置したと、当時上海派遣軍参謀副長だった岡村寧次が回想してい ます。この慰安所が、現在、文書から確認できる最初の日本軍慰安所です。この回想には、上海の海軍が作った慰安所をまねて作ったと書かれています。
 

本 格的に、そして広い範囲で慰安所が設置されるようになったのは、1937年末の「南京大虐殺」からです。上海から南京へと進行した日本軍は、南京までの行 軍のあいだ、そして占領した南京で、中国の軍人・民間人を殺し、女性を強かんし、家々を焼き、食糧などを奪い取りました。たくさんの中国人女性が、日本軍 兵士によって強かん・輪かんされ、口封じのために殺されました。
 

戦 争が激しくなる中、日本軍兵士はいたるところで中国人女性を強かんしました。これが中国人や国際的な対日感情を悪化させていました。そのため、1937年 12月、中支那方面軍が強かん防止を目的として上海派遣軍に対し、南京に慰安所を設置するように指示を出し、参謀部が設置に取り掛かりました。1938年 に入ると軍慰安所が急増しました。日中戦争下で、軍慰安所は主に派遣軍によって設置されました。
 

1938年11月の「武漢攻略作戦」のときには、南京での強かんの多発のような事態が再び起こることをおそれ、日本軍は、武漢に入城した直後、武昌という地に慰安所を開設させました。このように、日本軍「慰安婦」制度は日本の侵略戦争の進展と大きく関わっていました。
陸 軍の場合、派遣軍司令部が直接、慰安所設置にあたっていました。海軍の場合は、海軍省、各艦隊司令部、占領行政にあたった海軍民政部などが慰安所の設置運 営に関わっています。また陸軍のなかで慰安所設置を指揮する立場にあった人たちが、内務省警保局(現在で言えば警察庁)に出向いて女性集めを依頼しまし た。それを受けて警保局では、警保局長の名で府県知事に通牒を出して、県が業者を選定して女性を集めさせること、また業者に便宜を供与するように指示して います。
 

つまり中国への派遣軍、中央の陸軍省・参謀本部という 陸軍の組織だけでなく、内務省警保局、府県知事・県警察部長・警察署というように日本政府の中央から地方機関までが慰安婦の徴集と送り出しを組織的におこ なっていたのです。このように日本軍慰安所制度の設置運営は日本軍の機構全体にとどまらず政府・地方行政全体が関わった、国家ぐるみの行為でした。

それだけではなく、軍は慰安所の管理・経営にも深く関与しました。慰安所には、軍の関与の程度からみて次の三つのタイプがありました。(1)軍が直営する慰 安所。これは軍がみずから女性を集め、慰安所を建設したり建物を接取して慰安所につくりかえ、慰安所を直接管理・運営したものです。(2)軍が管理統制し て業者に経営させる軍人専用慰安所。軍は女性集めのため軍の証明書を出して便宜をはかり、軍用船などの「慰安婦」の輸送手段を提供しました。そして、慰安 所経営をする業者を選定し、慰安所の建物や食糧などを業者に提供しました。また軍は慰安所規則をつくり、各部隊の利用日を指定したり利用料金を決定しまし た。「慰安婦」の性病検査をおこなったのは軍医でした。さらに軍は業者の慰安所経営・管理を監督し、詳しい報告書を提出させました。慰安所を憲兵などの監 視下におき、「慰安婦」の外出なども軍の監視下におきました。(3)民間の売春宿を指定して一定期間使う軍指定の慰安所。日本軍慰安所というときに問題に なるのは、このうち1と2のタイプの慰安所です。.

 


  慰安所に連れてこられた女性たちの生活は、おおよそ自由とはほど遠いものでした。ひとつ、中国・江蘇省の常州というところに駐屯していた独立攻城重砲兵第 二大隊の作成した慰安女使用規定を見てみましょう。「松村部隊 水木曜日」「成田部隊 土曜日」というふうに、各部隊で使用する曜日が決められ、慰安所内 での飲酒の禁止、「防毒面(コンドーム)」の着用、「慰安婦」への「粗暴の行為」の禁止、などが細かく書かれています。そして「慰安婦」たちに対しても、 毎週の性病検査の実施、外出禁止、休みは月に1度など、厳しく規定されています。利用時間は下士官・兵は「午前9時より午後6時迄」(注)とあります。お そらく将校クラスはこの時間以降の利用です。料金は民族ごとに分けられ、下士官・兵は「支那人 一円〇〇銭」「半島人 一円五十銭」「内地人 二円〇〇 銭」で、将校はその倍額とあります。
 この慰安所使用規定数行と、各地の被害証言を比較して、より詳しくみていきましょう。
 まず、「慰 安婦」への兵士の粗暴な行いです。規定で禁止するとされていても、女性たちへの暴力はなくなりませんでした。畳に刀を突き立てられたり、平手打ちをされた り、抵抗すると骨が折れるほど殴られたりといった証言は、非常に多くの女性がしています(項目●「体の傷参照」)。そして彼女たちは多くの場合、建物の中 から出ることもできませんでした。部屋には鍵がかけられ、トイレに行くのにも監視がありました。
 毎週の性病検査は「慰安婦」の体を気遣って行わ れたのでしょうか。そうではありません。あくまで兵士が性病にかかる事を防ぐために行われました。コンドームの使用についても同じように兵士の性病を防ぐ ためであって、「慰安婦」の妊娠を防ぐために使用を勧めたのではありませんでした。不幸にも妊娠させられた女性には、何の処置もありませんでした。海南島 で「慰安婦」としてとらえられた李亜細さんという女の子は、日本兵が彼女のお腹を切り裂いて胎児を取り出し、脇に掘っておいた穴に放り込んで生き埋めにし てしまいました(注)。また中国・武昌・漢口の慰安所に連れてこられた宋神道さんは、数回妊娠させられ、1度は死産で自分の手で死んだ子供を引っ張り出 し、1度は産んだものの、育てることはもちろんできないため、土地の人に引き取ってもらい、それっきりになってしまいました。
 また、料金につい ての記載では民族で差別もあるのがわかりますが、では実際に彼女たちがお金をもらっていたのかというと、そうではありません。慰安所に連れてこられるまで の渡航費や着物などいろいろなものの代金が借金とされてのしかかり、料金は借金返済に充てるとされ、業者あるいは経理の担当者が預かる形になっており、結 局1円ももらえなかった人がほとんどです。代金を軍票として持っていた人もいますが、終戦とともに紙切くず同然になりました。借金の形さえとらず、お金の 話など1度も耳にしたことなく長期間監禁・強姦された人も非常に多くいました。
 慰安所はあくまで兵士の体が気遣われることはあっても、彼女たちの自由と安全が保障されるところではなかったのです。

 

参考文献
吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年
吉見義明・林博史編著『共同研究・従軍慰安婦』大月書店、1995年
『海南島戦時性暴力被害訴訟・地裁判決全文』2006年8月30日
川田文子『』


注 原文は漢字とカタカナ表記ですが、読みやすくするためにここでは漢字と平仮名を使いました。
注 同じ慰安所に監禁されていた譚玉蓮さんと譚亜洞さんが、その時のことを覚えており、証言しています。





3.慰安所以外での性的暴力はあったの?

  慰安所を設置を決めた目的の一つに、現地女性に対する強かんの防止というものがありました。(●項参照)強かんが多発することで、現地における抗日の意識 が高まり、統治しにくくなることを恐れたのです。では、慰安所を設置してことで、果たして強かんはなくなったのでしょうか。答えは、なくなりませんでし た。元日本兵の金子安次さんは、自分たちが中国の戦場で行なってきた加害の証言をしています。金子さんは言います。「我々の給料というのは、だいたい8円 80銭ぐらい。上等兵で11円ぐらい。その中から強制的に貯金をとられるんです。ですから金があまりありませんから、(慰安所で)1円50銭払うくらい だったら、作戦に行って強かんをした方がタダだというような考えがありました」。
 たしかに慰安所であれば、人によっては、日本国内での公娼制の 延長と考えて罪悪感を持たずに通ったんだ、と正当化することもできるかもしれません。しかし強かんは、戦時中の日本国内においてはもちろん、軍隊の中でも やってはいけないものとなっていました。陸軍刑法には、もし強かんをしたら7年の刑、現場にいただけでも4年以上の刑罰が課せられました。にもかかわら ず、日本兵はなぜ強かんをし続けたのでしょうか。「私たちは、中国人は全員殺せと教えられました。男はもちろんですが、女は子どもを産むから殺せ。子ども も大きくなったら我々に反抗するから殺せと言われたんです。だから、どうせ殺すならどんどん強かんしてもいい、そういう考えでした。それから、当時は中国 のことを差別的に「支那人」「チャンコロ」と言っていましたが、「チャンコロ」の女を強かんしてなにが悪いんだ、どっちみち殺すんじゃないか、こういう劣 等視がありました。だから我々兵隊はできうる限り強かんをしたんです」(金子)。
 このような占領地の人々に対する敵視と蔑視が、日本兵の行いの 残虐性に拍車をかけていくことになります。「八路軍はどこにいるのかって拷問するでしょう。しかしなかなか白状しないんだよ。だから殺してしまう。女性 だったら辱めてから殺すことが多い」(金子)として、強かんした後に女性の陰部に棒を突き刺して殺したり、中国人の男性を連れてきて、無理やり性交させ、 その最中に拳銃を撃って二人とも殺したこともあったといいます。
 「死人に口なし」という言葉があります。強かんされたのちに殺された人は、もう 訴えることはできません。一方で、こうした行いが上官からの命令でなく自発的に行なった以上、戦争の終わった世の中で証言すれば人格も疑われかねないこの ような行為に関して、元兵士たちが証言するはずもありません。わずかな数の元兵士の人の証言と、被害に遭った人々の家族の証言、それに現地の地方の文史資 料などから、多くの被害があったことが想像できますが、彼女たちの無念さは、永遠に知ることはできないのです。

参考文献
『季刊中帰連』第15号、2000年12月
『季刊中帰連』第20号、2002年 春
熊谷伸一郎『金子さんの戦争』リトルモア、2005年

 

 

4.「慰安婦」ってどうやって連れて行かれた?――強制性(甘言、誘拐、強制連行、村から徴発)

 

(1)朝鮮・台湾(植民地)から集める場合

現地軍が慰安所を作ることを決定すると、各地の軍が選んだ民間業者が朝鮮・台湾で、そこの警察や憲兵の協力で女性を集めたり、各地の軍が頼んで朝鮮・台湾の各部隊・軍が業者を選び女性を集めさせることもありました。軍が、業者に「慰安婦」を集めるための資金や渡航の許可証を与えました。

たくさんの未成年の女性が「慰安婦」として連れて行かれました。これは。日本軍が性病対策のため若くて性経験のない女性を必要としたためと考えられます。工場で働く仕事だ、看護婦の仕事だと騙されたり、借金の肩代わりとして身売りされて連れて行かれたり、拉致され無理やり連行されることもありました。このように、多くの朝鮮人女性が本人の意思に反して「慰安婦」にされたのです。

 

(2)日本から集める場合

当時の日本政府は、婦人・児童の売買を禁止した国際条約に加盟していました(植民地は適用外とされていました)。そのため、日本から日本人女性を「慰安婦」として海外に送る場合、21歳以上の「売春婦」から集められました。陸軍から内務省警保局に慰安婦集めと中国への送り出しの依頼が出され、内務省が業者を選定し、女性を集めさせたりしました。このような指示が出されたことは極秘扱いとされたうえ、経営者の自発的希望であるようにみせかけることまで指示されていました。

また、軍や警察も日本国内で女性集めをする場合は、人身売買や略取誘拐などの問題がないように指示しました。しかし、そのような指示が出されても、未成年の女性が連れて行かれたり、だまされて「慰安婦」にされたケースもありました。

 

(3)占領地=現地で集める場合

 

日本軍が侵略・占領した中国や東南アジアでは、日本軍はより暴力的な方法で女性を集めることがおおくありました。たとえば、日本軍が「討伐」のために町や村を襲ったときに、女性たちを捕まえ無理やり連れてきて強かん・輪かんしたり、日本軍が地元の有力者に対して各村から女性を渡すように命令したりしました。言うことを聞かなければ、家族や村の人を殺すと脅され、命令に従うほかなかったと語る被害者もいます。いい仕事があると騙したり、洗濯や炊事をさせると騙して連れて行くこともありました。

このように、「慰安婦」にするための女性集めや連行には、日本軍が自ら行うなど密接にかかわりました。また外務省、内務省、各地の警察、台湾総督府、朝鮮総督府その他の国家機関も直接・間接にかかわりました。

 

 

 

5.「慰安婦」ってどんな人がなったの?――民族差別・階級差別・職業差別

 

どのような人が「慰安婦」とされたのかをみていくと、民族差別・階級差別・性差別・職業差別の問題が深く関わっていることがよく分かります。

まず、民族差別ですが、植民地の女性や占領地の女性が多く「慰安婦」とされたことがあげられます。また、「等級」があり、それが民族で区分けされていた慰安所もあります。上級は日本人女性、中級は朝鮮・台湾人女性、下級は中国人女性などのように分けられていました。

階級差別については、「慰安婦」とされた女性の多くは貧困層の出身でした。小さなころから働き手として家族を支えなければならなかった彼女たちは、教育を受けることができなかったので、お金を稼ぐ方法や、生きていく方法が限られていました。彼女たちにとって、「いい仕事がある」、「家族に送金できる」という言葉は、魅力的に響いたことでしょう。

性差別については、「慰安所」「慰安婦」という命名が、兵隊(男性)にとってのものでしかなく、「慰安婦」とされた女性にとっては「慰安」とは程遠い場所であったことが物語っています。女性を「軍需品」(モノ)として扱い、消耗品のように考え、性病・そのほかの病気にかかったり、弱った「慰安婦」を治療もせずに「お払い箱」にしたり、妊娠した女性のおなかを切り裂き、中にいた赤ちゃんを取り出し、見せしめにして殺すこともありました。

職業差別については、「慰安婦」とされた日本人女性が「性を売る女性」だったことを思い出してください。国際条約などに加盟していたために、日本人女性を「慰安婦」とするために海外へ送ることに慎重だった日本軍や日本政府が、「性を売る女性」なら送ってもかまわないと考えたのは、なぜでしょうか。そこには、「売春婦」や「公娼」への差別意識があったのです。

これらの差別は、もちろん、ひとりにひとつ当てはまる、というものではなく、重なり合い、ひとつがもうひとつの原因となっていたり、お互いをさらに悪化させるという、関係しあった差別なのです。たとえば、朝鮮人であるから余計に職を探すことが難しく、貧しさから抜け出せなかったり、女性だから教育は必要ないと考えられていたり、貧しい家庭に育ったために、借金のかたに売られたりと、これらの差別は複雑に絡まりあっているのです。

「慰安婦」制度は、それらの差別が当たり前のものとして捉えられる中でうまれ、発展していった、日本軍による性奴隷制度だったといえます。

 

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