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about  譚亜洞あぽ

黎族である譚亜洞さんは、1925年7月に生まれました。

16歳か17歳の頃、日本軍によって「戦地後勤服務隊」として徴用され、駐屯地に連行されました。そして日本兵に山の中に連れて行かれ、強かんされたのです。このときの暴力によって、片方の耳が聞こえなくなってしまいました。譚亜洞さんはそのまま駐屯地の藁葺きの掘っ立て小屋に監禁され、昼は日本軍のために水運び、洗濯、裁縫、炊事などをさせられました。夜は間仕切りをした掘っ立て小屋で、日本兵によって強かんされました。生理中でもかまわず強かんされ、多いときには一晩に5人の日本兵に強かんされるときもありました。

譚亜洞さんは何度か逃げようとしましたが、すぐに監視していた日本兵によって捕まえられてしまいました。その度にこん棒で殴られ、「四脚牛」と呼ばれた拷問を受けたのです。監禁されている間の食事は、朝食は米と塩だけでした。昼食と夕食は、自分で山菜を探して食べなければなりませんでした。


譚亜洞さんは、各地の駐屯地をたらい回しされて、日本兵の性の相手を強要されました。大村の駐屯地に監禁されていたときに、同じく監禁され性の相手を強要され、妊娠していた李亜細さんという女性のお腹を、日本兵が切り裂き、さらには首をはね、お腹の中の生きている赤ちゃんを取り出すという凄惨な場面を目撃しました。
 

日本の敗戦間近になり、混乱していた日本軍の隙を見て逃亡しました。
 

日本の敗戦から二年たち、譚亜洞さんは結婚しました。夫は理解を示してくれましたが、周りの人からはいつも非難されていました。とくに文化革命のときには、非難の的にされました。現在に至るまで、村の人々は譚亜洞さんのことを「日本人の女」「日本娘」といい、蔑みの眼差しを向けてきたのです。
 

譚亜洞さんは日本兵に殴られて、右肋骨背部が変形隆起し、左腰骨もずれて隆起し外部に湾曲し、年老いてもその状態がずっと続いていました。また殴られ、強かんされた日々の悪夢にうなされる夜も、ずっと続いたのです。

譚亜洞さんは、2010年9月8日に永眠されました。

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